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すべての始まりは、タバコ臭い白い箱から…
僕が小学校2年生のある日、
父が社用車で家に帰ってきた。
いつものように出迎えると、車が違う。
父が、車のトランクを空けると、大きな白い箱が3つ。
父は、その箱を、とても重そうに応接間に運び入れた。
白い3つの箱は、我が家の広くない応接間の一部を占拠した。
この3つの白い箱が、すべての始まりだった。
この3つの箱は、当時総額150万円ほどのモニター、本体、プリンタだった。
3ヶ月ほど前、僕は父の会社で、
「うわー、すごいなー。なんか、不思議だー。」 「もっと、さわってみたい!」
と、はしゃいでいた。
僕がさわっていたのは、父の会社の「設計図作成用のパソコン」だった。
父は決心したんだろう。
僕がとても興味を持って、コンピュータをさわる姿を見て、
「学広(たかひろ)に、パソコンをプレゼントしよう!」
僕の家は、特別裕福な家ではない。
しかし、父は知り合いの会社で、廃棄するパソコンを安く購入し、
僕にプレゼントしてくれた。
子供の僕は、訳もわからないまま夢中でさわった。
とにかく楽しかったことだけは、覚えている。
そして、とても不思議な体験だったことも。
しばらくし、遊びが一段落したら、
他の小学生のように、外での遊びに夢中になっていた。
今になって思うのは、父にとても感謝していることだ。
そんな父が、突然の離婚
とても幸せで、理想的だった家族は、僕が小学校4年生頃から変わり始めた。
父は、独立し自分の会社を興した。
会社がうまくいけば、いくほど、父は帰ってこない。
ある日、帰ってきたかと思うと、テレビの上に太い封筒が。
中には、1万円札がたくさん入っていた。
母は、公務員で保母の仕事をしながら、僕と弟を育てていた。
お金には困ることはなかったが、完全に母子家庭になっていた。
世間には、父親がいることを装う状態。
ところが、年に数回が、だんだん減り、僕が中学2年の頃には、
お正月に1回だけ帰ってきた。
それでも、年に数回だけでも、父が帰ってくるなら、それでよかった。
そんな父は、ある日、一方的に離婚をする決意をした。
母は、僕たちにその騒動を見せまいとしていたが、
母が動揺していることは、思春期の僕にはよく理解できた。
話し合いの結果、離婚が決まった。
当時の僕は、ただ
「わかった」
と一言。弟は、布団の中で声も立てずに泣いていた。
僕はその年は、受験だった。
僕は思った。
「僕が受験に失敗したら、母が罪悪感を感じる」 「親の離婚に、自分の道を左右されたくない」
離婚のごたごたで、反抗期もなかった。
ただ、自分の目標に向かうだけだった。、
もともと、成績は中の下だったが、3年生の受験前に集中力を出し、
学校で4番目の成績を修め、難なく附属高校に進学できた。
この経験は、僕に一つの考え方を与えた。
「自分の道は、自分で切り開き、自分ですべての責任を負いたい」
情熱を持って入った大学で、思わぬ落とし穴に
高校時代は、青春をアメフトに捧げた。
3年生の最後の試合が終わったとき、僕は新たな決意をした。
友達は、「大学に入っても、一緒にやろうな」と言ってくれたが、
僕は、別のキャンパスにある総合情報学部に入学する決意をしていた。
総合情報学部は、コンピュータに関する学科。
大学の学部を選ぶとき、ふと思い出した。
そう、小さいときに触れたコンピュータの不思議さ、すごさを。
そして、新設間もない関西大学総合情報学部に入学。
当時、19倍の倍率で、みんなやる気満々の生徒が集まる場所だった。
しかし、入学してみてると、コンピュータ自体の授業が1割もない。
ほとんどが、一般教養で、コンピュータの魅力の講義がない。
そこで、僕は独学で不思議に思っていることを調べた。
このことで、学校の授業では得られない知識を独学で学んでいった。
その結果、何の学びもない学校が面倒になり、
普通の大学生のように、授業にはテスト2週間前だけ出席し、
後はアルバイトと、遊びの毎日だった。
遅くにやってきた反抗期も手伝い、
母と対立したり、さんざんな学生生活を送った。
何とかしなくては!と思い行動に
気づけた、大学3回生。
成績は、落第寸前。
そこにきて、やっと気づいた。
「このままじゃ、僕の人生はダメになる」 「こんなビリの成績の人間をほしい会社はいない」
そう考えると、行動は早かった。
「この学部で一番難しい研究室に入ろう」 「成績は、もう取り返しがつかない」 「だったら、研究成果を残して企業にアピールしよう」
そう考え、もっとも難しい研究室の門をたたいた。
友人や先輩は、今までの僕をみて
「おまえには、絶対無理だ」 「やめておけ」
と助言してきた。
そのことが、僕の闘志に火をつけ、いっそう研究をがんばった。

学部生用の研究部屋にたった一人で、黙々と研究に打ち込んだ。
チャンスがあれば、すべて手を挙げた。
その結果、大阪地下街案内システムというNTT,大阪市の共同研究で、
NHKのニュースに紹介され、ビジネスイベントでも紹介してもらうことができた。
意気揚々と大学院に進むが、それでも…
研究の楽しさを知って、大学院に進むことにした。
もちろん、僕の家は母子家庭。
母に事情を説明し、奨学金と社会人大学院生の紹介で、
プログラミングのアルバイトをすることで、お金を用意した。
母は、僕がしっかり研究をするまで、辛抱強く見守ってくれていた。
本当に感謝している。
他の院生の誰よりも真剣だった。
その真剣さ故に、同期とぶつかり合うこともあった。
それでも、絶対にあきらめず、行動し続けた。
その意気込みのおかげで、恩師である教授から、
業界最大手の鹿島建設との共同研究プロジェクトを任され、
技術者も納得する「コンピュータによる大規模維持管理計画策定システム」
を作り上げた。
そして、教授からアイデアをもらうのではなく、
自分自身で、調べ全く別のアイデアを研究室に持ち込んだ。
更に、将来の技術動向の予測をして、研究室では使っていなかった、
プログラミング言語を導入し、皆に広めた。
そのプログラミング言語(Java)は、今ではもっとも重要な言語となっている。

そのような活動の中、自然と博士号取得の道を選んだ。
そして、順調に研究者としての道を歩んでいたが・・・
すべては、そううまくいくものではなかった。
研究者のしがらみと制約に嫌気がさす
博士課程最後の年に近づく頃、
僕の研究分野の裏側もよく見えるようになった。
「いわゆる白い巨塔」
参考にもならなかった、論文を参考文献として載せる。
それによって、知り合いに審査してもらえる。
気を遣って、本当に大事だと思うことを発表できない。
僕が、ずばっと本音を言うと、何の質問も議論も返ってこない。

議論をするのが学会ではないのか?
そして、
「元々裕福な人たちの集まり」
僕には肌が合わなかった。
留学したいと言えば、お金をぽんと出してくれる親がいる。
僕の家は母子家庭で、そんな余裕はない。
もちろん、できる限りの援助は惜しまずしてくれた。
それでも、いい年をして稼ぎもせず、学生をしている自分が、
「嫌で、嫌で仕方なかった」
一方で、職業として大学で研究していくことを考えたとき、
未来を想像したとき、ぞっとした。
「いろんなしがらみを考えながら、仕事をしていくのか?」 「世の中に役立つ可能性が、こんなにも低いことをずっと続けるのか?」 「こんな我慢だらけの人生でいいのか?」
そんな思いから、会社をしようと思った。
そう、不思議なことに父と同じ道を歩み始めようとしている。
決意すれば、あとは行動あるのみ
大学の図書館から、年間100冊以上の本を借りた。
お金の基礎から始まり、マーケティング、経営戦略、
現在のインターネットの状況、Web技術、情報ビジネスなどを
独学で、研究の技能を活用して、自分なりに分析していった。
博士号を取るために150ページにも及ぶ論文を書きながら、
必死で勉強し、調査、研究を行った。
そして、その集中力によって、見事にストレートで博士号を取得。

この年、博士号を取得したのは亀田だけ。博士号番号は、13だが取得した順序は7番目。ストレートで博士号をとれなかった人が、僕の前に6人存在している。
そしていくつかの結論を導き出した。
- もうすぐ始まる冬の時代、信念を持った商人が必要になる
- もっと個性、個人の顔が見える情報発信が必要
- インターネットは、ものを安く売り買いする場所だけではない
- インターネットは、怪しげなノウハウを売り切る場所だけではない
- インターネットは、迷惑なメールを投げ合う場所ではない
- インターネットは、想いを伝え、想いを交流させる場所
そして、必要なものは、
最新技術によって簡単になった道具
- 誰でも使える、パソコン初心者でも使える
- 今までなら、到底無理だと思えたことができる
- コンピュータの専門家なら、よく知っている道具
思ったらすぐ行動できる便利な道具
- すぐに反映できる、行動に起こせる
- 学ぶ時間、労力を極力減らせる
- 家でも、会社でも、出先でも使える
低価格
- 必要なものだけ、使いこなすことだけに集中すれば、安くなる
- 箱にはお金をかけず、中身にお金、時間をかける
- とにかく時間を短縮することで、時間を買う
このような特徴を持つ道具を提供したい。
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